「辻井伸行奇跡の音色」②

さて、北海道旭川出身の川上先生の話に戻ると、お父様は地元公立中学校の数学教師でクラシック音楽好き。居間にあるアップライトピアノを趣味で弾いていた。LPレコードもいつも聴いており、その影響で川上先生も小さい頃から音楽を聴いて育った。

お気に入りは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」。確かに牛田智大はショパンの「ピアノ協奏曲第1番」をよく聴いていた。ここでもひとつの共通点を見つけた。ピアニストは皆、小さい頃からピアノ協奏曲が好きのようだ。 

小学生さながら音楽家を志した川上先生は楽譜を買うために、なんと5年生から中学2年まで、新聞配達のアルバイトに励み、いつかは5年1度のショパンコンクールに出場できるピアニストになる夢を抱いた。

東京音大へ進学してからも、周りの誰よりも演奏技術を磨くことに熱心し、大学1年の夏から8ヶ月もの間、毎日欠かさずに「ハノン」全60曲を弾き続けた。
 
次第に筋力が日増しについてくるのが実感できるようになり、疲れ度合いが格段に減り、持続力がついてきたという感覚が湧いてきたという。 

ここで我が子の今期不振を振り返ってみたい。確かに選曲ミスは否めないものの、しかし、3月から教則本の「ハノン」と「チェルニー」を取っ払って、コンペ曲しか弾かなかったことも、我が子の技術力がついていけなかった理由のひとつだと思う。 

半年の空白を取り戻すべく、早速先週からハノンの練習を再開させ、しかも先生の指示を待たずにどんどん進めてもらっている。

川上先生が伝えるハノン効果は、私がこの本を読んで1番勉強になったことかもしれない。

地道な努力を続けても、教授に認められなかった川上先生はピアノの本場、ヨーロッパへの留学を決意した。それは当時の日本の音楽教育の雰囲気では、自分は大きな結果を出せないのではないかという閉塞感を感じたからだという。

日本の音楽教育雰囲気はもしかしたら、今にも変わっていないかもしれない。川上先生がおっしゃっている「グランドピアノが2台あるものの、指導者はピアノを弾かない」とか、「生徒の演奏を聴いて『ダメだ!』『演奏が歌っていない』と言葉を浴びせるだけで、いわゆる根性精神なるものが、まかり通っている」とかが、今にもピティナで優秀指導者賞を連続獲得していた我が子の入門先生が行われているのだ。

川上先生は1988年、東京音大のピアノ演奏家コースを首席で卒業し、卒業式で総代まで務め、同年、スペインで開催されたマリア・カナルス国際ピアノコンクールで4位入賞を果たし、弘中孝教授の紹介でウィーン市立音楽院へ留学する道となった。  

留学から2年経った1990年、「ショパン弾き・川上」の異名まで得た川上先生は、ウィーンでショパン協会が主催するリサイタルに出演し、曲目はすべてこの年の10月に開かれたショパン・コンクールで要求されるレパートリーを想定したのだ。

聴衆から絶賛され、特にエチュード10-8は「今まで聴いたなかで一番良かった」と評された。

「今まで聴いたなかで一番良かった」…聞き覚えがある。ピティナB級の古典、クレメンティのソナチネを我が子が弾き終え、指導の先生がかけてくれた言葉だった。

でも、コンクールには運というものも必要とする。我が子が今年不運だったのと同様、川上先生も書類審査でショパン・コンクールに落選した。

25歳だった川上先生にとって、5年に1度開催されるこのコンクールへの挑戦は、年齢制限28歳までの理由で、これが最初で最後のチャンスだった。

当然書類は通ると考えていたという。我が子も当然全国決勝へ行けると考えた。大きく期待すればするほど絶望も大きい。私が高校生の頃に悟ったこの真理は川上先生にも起きたのだ。

塞翁が馬。神様はこれを失わせれば、必ずほかのご褒美をくれる。川上先生には素敵な出逢いが恵まれていた。自分より1年先にウィーンに留学していた青木ユカリさんと偶然に知り合い、交際して結婚された。

さて、馬を失った我が子に、神様は何のご褒美をくれるのだろう。東京音大付属音楽教室で良き先生のご指導によりショパコンアジア大会入賞なのかしら。あるいは、私の密かなステップアップが実現できる事かしら。

楽しみだ。

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